ロブスター

 この映画の奇妙な点として、登場人物たちの恋愛観が挙げられると思います。近視、足の悪いこと、滑舌の悪いこと、ビスケットが好きなこと、鼻血の出やすいこと、美しい髪をもっていること、冷酷非情なこと等々、自分の特性とでもいうべきものを、相手もまた有しているのでなければ、恋愛関係を結ぶことができないと彼らは固く信じ込んでいます。
 しかしこれはまったく根拠のない思い込みではなくて、ある意味では、ある事実から導かれたそれなりの論理的帰結であると思います。その事実とは、恋愛関係というものは幻想にすぎず、個人を結び付ける客観的根拠はどこにもないという事実です。西欧圏のかつての社会ではおそらく神が、個人の間をとりもつ客観的根拠として存在していたのだと思いますが、この映画の世界は動物も子供も人間が工業的に造り出す神なき世界であり、そういう意味では現代社会そのものといっていいと思います。
 問題は、客観的根拠はどこにもないのに、他人同士が結びつかなければ、この社会が崩壊してしまうということです。そこで上述の「個性」を共通に有していることを足がかりに、あたかも自然的に二人が結びつけられたかのようにふるまい、二人の恋愛関係を構築していこうと試みるわけです。そのため、恋愛一般にいえることだと思いますが、この関係は根本的に欺瞞的です。
 森に潜む独身者たちのリーダーの女は、この欺瞞を許せない極北の存在として描かれています。彼らが館を襲う目的は、その欺瞞を暴くというただ一点にあります。しかし彼らは反動的勢力ではありますが、その存在は完全に社会の主流に依存し、結局は同じ価値観を有しています。彼らの規律は矯正施設のルールの裏返しに過ぎず、オリジナルな文化は何もありません。だからリーダーの女は、完全に主流派の存在である両親の子供であり、そしてよき娘として家庭を繕いながら、他方で反抗的な不良娘としてふるまい、両親の欺瞞を他者におしつけ、憂さ晴らしをしているのです。
 つまり欺瞞を出発点として関係を結ぶことが、大人の義務として課されているわけで、そういう意味で鼻血が出る体質のように装った主人公の友人は、まったく正しい主流派の道を歩んでいたわけです。主人公に夫の嘘を暴露された夫人が、まず主人公の頬を張ったのは、実際には無意識的に夫の嘘を許容して、欺瞞的で「正しい」道を歩もうとしているのに水を差されたからです。
 またこの映画に出てくる動物たちは、もともとは他人と恋愛関係を結ぶことができなかった人間ですが、動物とはただ生殖という目的のためだけに、何ら欺瞞なく本能的にお互いが交わることのできる存在であり、そういう意味で動物に変えられてしまうことは、「治療」といっていいのだと思います。しかしそうであるならば、落伍者である独身者以外の人間すべてについても、欺瞞的な恋愛関係を構築している限り、この治療は必要なわけです。つがいの動物は人間たちにとって「真の恋愛」を体現しているわけで、そのため彼らは動物に対し、落伍者の末路として侮蔑する一方、強烈な劣等感と嫉妬心を抱いていると思います。冒頭での、女がロバのつがいの一方を射殺するシーンは、この嫉妬心を表現しているのではないでしょうか。
 この映画で人間にとって唯一の希望といえるのは、主人公と何ら共通項を見出さない段階で、主人公に惹かれたヒロインの存在です。理由なく、自身の直観に従って自ら恋愛関係を構築できるのは登場人物たちの中で彼女だけであり、一方で主人公はヒロインに惹かれつつも、近視という共通項を見出して初めて恋愛関係を構築することが可能でした。独身者のリーダーが主人公でなく彼女の目を潰したのは、ヒロインに共通項を見出せなくなった主人公が、ヒロインを見捨てて離れてゆくように仕向け、結局恋愛が欺瞞でしかないということを証明しようと画策したためであり、また前述の女がロバに嫉妬したように、ある意味で不具者が健常者に嫉妬したという側面もあるのだと思います。
 主人公は彼女との共通項を無理やり作り出すべく、自らの目をステーキナイフでえぐろうと試み、その間ヒロインはじっと主人公が帰ってくるのを待っているというシーンで映画は終わりますが、この映画の終着点はまさに、物語がハッピーエンドで終わるかかバッドエンドで終わるかという岐路であったわけです。主人公が目を潰して帰ってきた場合、それは結局主人公が欺瞞的なやり方でしかヒロインと関係を結べなかったということであり、バッドエンドです。ハッピーエンドへの道は、主人公が目を潰さずに帰ってきて、何らの足がかりなく彼女と関係を結ぶことです。共通項があることを足がかりにすることは、他人を自己の延長として把握するということでもあります。他者とは本質的に不可解で恐怖の対象であり、主人公はその恐怖を捨て、他者としてのヒロインのもとへ「跳躍」することが求められていると思います。

ひつじ村の兄弟

 行間を読ませるタイプの映画なので、人によっていろいろな解釈ができそうなところですが、私としてはこれは近親間での同性愛を扱った映画だと思いました。

 映画の結末で兄が意識を失った弟を裸で抱きしめて「もう大丈夫だからな」と囁く場面になって、私は初めて「ああそうか」と思い至ったのですが、それまでのシーンのあちこちで、同性愛が暗示されています。
 兄弟とも高齢なのにずっと独身であり、「なぜあなたは独身なのか」とはっきり質問された弟が、「村には女性が少なくて…」などと言いよどむシーンがありますが、これは虚偽の理由であって、弟には本音を隠す必要がある後ろめたさがあったため、はっきりと答えられなかったわけです。なぜ結婚しなかったのか、本当の理由は兄を愛していたからです。

 兄弟とも羊に大変な愛情を注いでいるように見えますが、なぜそんなに羊を愛するのかといえば、羊が兄弟にとってお互いの代理物だからです。弟が自宅に隠した自慢の雄羊を、雌羊と番わせて喜ぶというグロテスクなシーンがありますが、これを見て私はクローネンバーグ監督の「イースタンプロミス」という映画の一場面を連想しました。そちらのネタバレにもなるので恐縮ですが、それは自分が同性愛者であることを必死で否認しながら、主人公(男)に恋をしているマフィアの跡取り息子が、主人公に女を抱かせて、その様子を鑑賞しながら自らの性的欲求をひそかに満足させるというシーンです。女を抱くのを見守ってやる、というある意味ではマッチョといえなくもない状況であり、そこでは同性愛を否認しながら同性愛的な性的満足を得るという、矛盾した欲望が満たされているわけです。「ひつじ村の兄弟」のほうでは、欲望の対象である男が、さらに羊に代理されているわけで、二重に否認が働いているといえます。
 そこまで否認しなければならないのは、弟の抱いている欲望が同性愛というだけでなく、さらに近親相姦でもあるからです。兄弟の仲は一見非常に険悪ですが、それはお互いの感情を過剰に否認しなければならないためであり、その一方で実際は隣同士という近距離で、お互いの代理物である羊を愛で、ひそかに愛を通わせています。そして村に蔓延した疫病と、それに伴った羊の殺処分は、世間からの兄弟の同性愛に対する非難と迫害の象徴ではないでしょうか。兄の羊が罹患しているという事実に、獣医でさえ気がつかなかったのにもかかわらず弟が真っ先に気づくことができたのは、まさに蛇の道は蛇というように、自分と同じ背徳的なやりかたで兄が羊を愛しているという事実を発見できたからです。

 病気の羊≒同性愛の兄弟であって、弟が獣医たちがやってくるよりも先に、自ら羊たちを殺処分したのは、「私は同性愛者ではない」という世間に対するアピールであって、目くらましでもあります。弟が世間から愛する羊を隠したのは、兄を愛しているという事実を隠したのと同じことであると思います。

 兄の方は、弟よりもやや情熱的に、弟を愛しているように思えます。兄の羊が疫病に罹患していることを弟が当局に通報した時に、兄がなぜあそこまで怒り狂ったかといえば、愛する人に袖にされたと思ったからです。かたくなに羊の殺処分に抵抗したのは、弟に対する愛を曲げないという意思の表れであり、酔っ払ってわめきちらし、弟の家の前で自暴自棄に昏睡した兄の姿は、あからさまに絶望的な求愛の姿を示していると思います。

 映画の終盤で羊を逃げさせるという名目で山に入ったのは、実は兄弟にとって愛の逃避行だったわけです。それまで「羊、羊」といっていたのが嘘のように、あっさりと羊がどこかへ消えてしまったのは、その時点で代理物であった羊が不要になったからです。世間から逃走し、死を目前にして、初めて二人はじかに相対し結ばれることができたわけです。「もう大丈夫だからな」と兄が囁くのは、弟が兄よりも世間におびえて、隠蔽を施し、兄からも自ら距離を取っていたからではないかと思います。

 また原題が『 HRÚTAR』、英語で『RAMS』であり、そこからなんとなく連想されるように、この映画の羊には「贖罪の羊」というイメージも付与されていると思います。レビ記の贖罪の羊においては、本来罪とは無関係である羊に、人間が自分たちの罪を背負わせて神に奉げ、罪を贖うということになっています。

 そして兄弟が羊をお互いの代理物としているということは、そこで自分たちの同性愛という罪を、無垢な羊に転嫁しているともいえるわけです。そう考えると羊たちを山に連れて行ったのは、贖罪の羊を神に捧げに行ったとも解釈でき、「もう大丈夫だからな」という兄のセリフは、神に罪を贖ったことを示しているともいえそうです。

 

 私としてはこれは純愛映画であって、話の筋立てとしては、老人かつ近親相姦かつ同性愛という性質のために多重に隠蔽を施されたという点を除けば、ロミオとジュリエットと同じであると思います。「ひつじ村の兄弟」という牧歌的なイメージに反して、背徳的ですが、なかなか面白い映画だと思いました。

オンリー・ゴッド

 こういう一見で意味がわからない映画は、いろいろ推理したり想像でストーリーを埋めていく、というのがひとつの楽しみ方であると思います。そういう意味でこの映画はとても面白かったので、どういうふうにこの映画を見たか、私なりの解釈を書いてみたいと思います。
 
 まず主人公のジュリアンはなんだか悶々とした暗い男です。彼はアメリカにいたころにお父さんを素手で殴り殺していますが、なぜそんなことをしたかといえば、これはエディプスコンプレックス的ないわゆる「父殺し」で、お母さんを自分のものにするために行為に及んだものだと思われます。
 しかしそのお母さんが曲者で、息子のものにならないどころか、一方では拒絶し、一方では愛情でがんじがらめにするという、身動きの取れない状態にジュリアンを追い込みます。タイに行ったことはおそらく母の意向によるものだと思いますが、それは母による追放という意味もある一方で、麻薬取引という仕事を通じて依然として母の影響力の下にあるということでもあります。
 こうした母親との屈折した愛憎関係の一方で、ジュリアンはお父さんを殴り殺してしまったことの罪悪感にも囚われています。父を殴り殺した拳をじっと見つめたり、手を洗いながら血を洗い流している幻覚を見てしまうことも、この罪悪感に由来するものです。
 この二重の束縛によって、ジュリアンは自由を奪われています。そのせいで恋人との関係を進めることもできず、自分の人生を歩んでいけない状態になっているのです。
 そしてこの状態からジュリアンを解放してくれるのが、チャンです。原題が「Only God Forgives」である通り、チャンさんは神様の象徴というか、神そのものとして描かれています。よく指摘されていますが、謎のカラオケシーンは宗教的儀式としての意味があるのだと思います。それまで持っていなかった蛮刀を背中からヌッと出現させたり、殺し屋の襲撃を予知したりするのも、神様ゆえの能力というわけです。
 というわけで、お母さんによる呪縛と、罰と開放を予感させてくれる神であるチャンという、二つの引力の中でジュリアンが翻弄されるというのが大まかな筋立てです。愛情を報酬に母親の奴隷になるか、神に罰せられて自由になるか、という揺れ動きでお話が進んでいきます。
 映画の終盤で、母が自分だけのものになるという期待を抱いてジュリアンはチャンを殺しに行きますが、そこにいたチャンの庇護下にある少女を助けるために仲間を殺してしまいます。なぜ母の命令通りに少女を殺すことができなかったのかといえば、ジュリアンは母の命令で殺されてしまう少女の中に、自分と母親との関係を見出したのではないでしょうか。母親は子供たちを自分の言いなりになるように性的な手段まで使って隷属させていましたが、同時に子供たちを精神的・象徴的に殺していたわけです。
 ジュリアンの兄が16歳の少女をレイプして殺したのも、母と自分との関係を、被害者であった自分が加害者である母になりかわって再度演じることで、そのトラウマを乗り越えようとしたものではないかと思います。そういう意味では兄は弟よりも重症です。兄弟が出会った二人の少女は、それぞれが幼き日の兄弟自身の姿を映す鏡であり、そこでジュリアンは自分自身を救い出すことができましたが、兄にはそれができずに、母と一体化してかつての自分を犯して殺してしまったわけです。「怪物が来るぞ」というセリフの怪物とは少女を殺す自分のことでもあり、その自分に憑依している「子を殺す母」という母親のイメージでもあります。

 本編と直接関係ない話ではありますが、このジュリアンと母親の関係はレフン監督の別作品である「プッシャー2」での主人公と父親の関係によく似ています(片親と死別し、健在の親は犯罪組織の元締めで、兄弟ばかり可愛がって自分には冷たく、映画の終盤に人を殺すように命じてくる)。
 また父権的で暴力的な神のイメージというのも、「ブロンソン」や「ヴァルハラ・ライジング」や「ドライヴ」の非常に暴力的である一方で聖人的でもある主人公たちの姿と重なります。そういう意味では、これまでの作品を掛け合わせたような映画であるともいえるのではないでしょうか。

ボローニャの夕暮れ

  様々な感想を読んだのですが、多かったのが「オヤジが気持ち悪い」でした。
 娘に彼氏を工面しようとするところなどは、娘に対する干渉としては行き過ぎていて、嫌悪感を感じる人も少なくなかったと思いますし、なにより客観的に見ればろくでなしの男を娘にあてがったところで、それは本当に娘の幸せを考えてのことなのだろうか、という疑問も残ります。
 全体的に父親の見当違いの盲目的な愛情が感じられ、そこらへんのモヤモヤが映画の高評価にあまり結びついていないようです。

 私としても、やっぱり父親の愛情は見当違いのものだったと感じたのですが、しかしそれは途中までのことだったように思います
 この映画が描いているものは、そこからの父親の変化というものじゃないでしょうか

 まずこの家庭には欺瞞がありました。妻は本心では夫を愛しておらず、夫の友人に恋をしている。そしてそのことを夫も娘も実は知っている。知っているのに知らないふりをしているわけです
 映画の冒頭で妻がその友人に色目を使うシーンがありますが、その母を見つめる娘の表情は不安そのものです。母は一見娘の自分を愛しているようではあるが、実はそうではないことを無意識に知っているから不安なのです。

 ダンスパーティの会場で失神したのは、母と比較した自分の惨めさに癇癪を起こしたのではなく、見知らぬ男とかわるがわる楽しげにダンスを踊る母の姿に真実を見ているからです。その本性を目の当たりにしながら、それでもなお父と自分は、お母さんは私たちを心から愛しているという欺瞞の演技を続けなければならない。その矛盾に耐えきれなくなったのでしょう。

 母の愛情を信じるためには真実を無視して母娘という形式を信じるしかない。
娘は母が立場上ふるまっているだけの見せかけの愛情を信じて、本当の関係には目をつぶってしまいます。「あの子は他人を外見でしか判断しない」と母は言いますが、これは母親の行動が原因になっているわけです。
 この真実の無視と形式の盲信という行動様式は一貫して娘を支配しています
そのように行動することで家庭を維持し、かろうじて精神のバランスを保っているからです。

 そしてこの母娘の欺瞞の愛情関係に、父が作り出した娘とボーイフレンドとの関係は非常によく似ていました。ここでも娘は本当は自分など愛されてはいないということを感じつつも、ボーイフレンドの見せかけの愛情を信じなければなりませんでした。
 ボーイフレンドの愛情が見せかけだけの嘘であるということを認めるのは、母の愛情もまた同じように嘘であると認めてしまうのと同じことになるわけで、それは娘の拠って立つものを根底から揺るがせることになるからです。
 しかし母娘の関係では母親も一種の共犯的役割を担っていたので、嘘が破綻して現実が露呈することはかろうじてありませんでしたが、ボーイフレンドとの関係ではそれがうまくいきませんでした。
 そこには本当の恋人の存在という絶対的な障壁があったからです
 この矛盾は娘の人格にとって絶対に否定しなければならないものでした。そのためには、その存在そのものを世界から消してしまうしかない。つまり、殺すしか方法がなかったわけです。
 しかしそれでボーイフレンドの愛情が確かなものになるかといえば、そうではない。現実には見せかけの愛情すら一切なくなってしまいます。
 もはやすべての現実を否定しなければ、ボーイフレンドの愛情ひいては母親の愛情を信じることが不可能な地点まで追い込まれてしまい、妄想の世界に入り込んでしまいます。

 その一方で父親もまた娘同様、真実の無視と外観の盲信に囚われてしまっています。
 画家として大成したかつての旧友に、返事が来ないとわかっている手紙を書き続けるのも、娘への愛情が見当はずれであるのも、旧友の手紙を無視することはないだろう、女生徒に人気の男子生徒と恋仲になれば幸せだろう、という見せかけを信じてしまっていて現実が見えていないためです。

 しかし娘の狂気の原因が妻との欺瞞の関係にあったことを悟って、父親は嘘と現実の分裂に決着をつけようと決意します。

 妻が本当は自分ではなく友人を愛していることを認める、愛のない夫婦関係という嘘を終了させるなど、現実から目をそらすことをやめて、実質に則った行動を始めます。
 旧友への最後の手紙に書かれた、"見えるものを描く者から見えないものを描く者へ"という言葉も、そのことを示しているのではないでしょうか。

 娘への愛情もそれ以前と以後では違ったものになっています。法廷で娘が場違いな化粧をしたいと言えばそれを許し、幻想に囚われた娘の要望をそのまま呑んできたような父親が、被害者家族への面会を引き留めるなど、現実に根ざした気遣いができるようになっています。

 このような家族と欺瞞の物語がよく描かれているように思いました。
物語の舞台が二次大戦下のイタリアに設定され、ファシズムの台頭と衰退という幻想の時代の消滅を背景にしているのもそのあたりが意図だったのかと思います。