ボローニャの夕暮れ

  様々な感想を読んだのですが、多かったのが「オヤジが気持ち悪い」でした。
 娘に彼氏を工面しようとするところなどは、娘に対する干渉としては行き過ぎていて、嫌悪感を感じる人も少なくなかったと思いますし、なにより客観的に見ればろくでなしの男を娘にあてがったところで、それは本当に娘の幸せを考えてのことなのだろうか、という疑問も残ります。
 全体的に父親の見当違いの盲目的な愛情が感じられ、そこらへんのモヤモヤが映画の高評価にあまり結びついていないようです。

 私としても、やっぱり父親の愛情は見当違いのものだったと感じたのですが、しかしそれは途中までのことだったように思います
 この映画が描いているものは、そこからの父親の変化というものじゃないでしょうか

 まずこの家庭には欺瞞がありました。妻は本心では夫を愛しておらず、夫の友人に恋をしている。そしてそのことを夫も娘も実は知っている。知っているのに知らないふりをしているわけです
 映画の冒頭で妻がその友人に色目を使うシーンがありますが、その母を見つめる娘の表情は不安そのものです。母は一見娘の自分を愛しているようではあるが、実はそうではないことを無意識に知っているから不安なのです。

 ダンスパーティの会場で失神したのは、母と比較した自分の惨めさに癇癪を起こしたのではなく、見知らぬ男とかわるがわる楽しげにダンスを踊る母の姿に真実を見ているからです。その本性を目の当たりにしながら、それでもなお父と自分は、お母さんは私たちを心から愛しているという欺瞞の演技を続けなければならない。その矛盾に耐えきれなくなったのでしょう。

 母の愛情を信じるためには真実を無視して母娘という形式を信じるしかない。
娘は母が立場上ふるまっているだけの見せかけの愛情を信じて、本当の関係には目をつぶってしまいます。「あの子は他人を外見でしか判断しない」と母は言いますが、これは母親の行動が原因になっているわけです。
 この真実の無視と形式の盲信という行動様式は一貫して娘を支配しています
そのように行動することで家庭を維持し、かろうじて精神のバランスを保っているからです。

 そしてこの母娘の欺瞞の愛情関係に、父が作り出した娘とボーイフレンドとの関係は非常によく似ていました。ここでも娘は本当は自分など愛されてはいないということを感じつつも、ボーイフレンドの見せかけの愛情を信じなければなりませんでした。
 ボーイフレンドの愛情が見せかけだけの嘘であるということを認めるのは、母の愛情もまた同じように嘘であると認めてしまうのと同じことになるわけで、それは娘の拠って立つものを根底から揺るがせることになるからです。
 しかし母娘の関係では母親も一種の共犯的役割を担っていたので、嘘が破綻して現実が露呈することはかろうじてありませんでしたが、ボーイフレンドとの関係ではそれがうまくいきませんでした。
 そこには本当の恋人の存在という絶対的な障壁があったからです
 この矛盾は娘の人格にとって絶対に否定しなければならないものでした。そのためには、その存在そのものを世界から消してしまうしかない。つまり、殺すしか方法がなかったわけです。
 しかしそれでボーイフレンドの愛情が確かなものになるかといえば、そうではない。現実には見せかけの愛情すら一切なくなってしまいます。
 もはやすべての現実を否定しなければ、ボーイフレンドの愛情ひいては母親の愛情を信じることが不可能な地点まで追い込まれてしまい、妄想の世界に入り込んでしまいます。

 その一方で父親もまた娘同様、真実の無視と外観の盲信に囚われてしまっています。
 画家として大成したかつての旧友に、返事が来ないとわかっている手紙を書き続けるのも、娘への愛情が見当はずれであるのも、旧友の手紙を無視することはないだろう、女生徒に人気の男子生徒と恋仲になれば幸せだろう、という見せかけを信じてしまっていて現実が見えていないためです。

 しかし娘の狂気の原因が妻との欺瞞の関係にあったことを悟って、父親は嘘と現実の分裂に決着をつけようと決意します。

 妻が本当は自分ではなく友人を愛していることを認める、愛のない夫婦関係という嘘を終了させるなど、現実から目をそらすことをやめて、実質に則った行動を始めます。
 旧友への最後の手紙に書かれた、"見えるものを描く者から見えないものを描く者へ"という言葉も、そのことを示しているのではないでしょうか。

 娘への愛情もそれ以前と以後では違ったものになっています。法廷で娘が場違いな化粧をしたいと言えばそれを許し、幻想に囚われた娘の要望をそのまま呑んできたような父親が、被害者家族への面会を引き留めるなど、現実に根ざした気遣いができるようになっています。

 このような家族と欺瞞の物語がよく描かれているように思いました。
物語の舞台が二次大戦下のイタリアに設定され、ファシズムの台頭と衰退という幻想の時代の消滅を背景にしているのもそのあたりが意図だったのかと思います。