オンリー・ゴッド

 こういう一見で意味がわからない映画は、いろいろ推理したり想像でストーリーを埋めていく、というのがひとつの楽しみ方であると思います。そういう意味でこの映画はとても面白かったので、どういうふうにこの映画を見たか、私なりの解釈を書いてみたいと思います。
 
 まず主人公のジュリアンはなんだか悶々とした暗い男です。彼はアメリカにいたころにお父さんを素手で殴り殺していますが、なぜそんなことをしたかといえば、これはエディプスコンプレックス的ないわゆる「父殺し」で、お母さんを自分のものにするために行為に及んだものだと思われます。
 しかしそのお母さんが曲者で、息子のものにならないどころか、一方では拒絶し、一方では愛情でがんじがらめにするという、身動きの取れない状態にジュリアンを追い込みます。タイに行ったことはおそらく母の意向によるものだと思いますが、それは母による追放という意味もある一方で、麻薬取引という仕事を通じて依然として母の影響力の下にあるということでもあります。
 こうした母親との屈折した愛憎関係の一方で、ジュリアンはお父さんを殴り殺してしまったことの罪悪感にも囚われています。父を殴り殺した拳をじっと見つめたり、手を洗いながら血を洗い流している幻覚を見てしまうことも、この罪悪感に由来するものです。
 この二重の束縛によって、ジュリアンは自由を奪われています。そのせいで恋人との関係を進めることもできず、自分の人生を歩んでいけない状態になっているのです。
 そしてこの状態からジュリアンを解放してくれるのが、チャンです。原題が「Only God Forgives」である通り、チャンさんは神様の象徴というか、神そのものとして描かれています。よく指摘されていますが、謎のカラオケシーンは宗教的儀式としての意味があるのだと思います。それまで持っていなかった蛮刀を背中からヌッと出現させたり、殺し屋の襲撃を予知したりするのも、神様ゆえの能力というわけです。
 というわけで、お母さんによる呪縛と、罰と開放を予感させてくれる神であるチャンという、二つの引力の中でジュリアンが翻弄されるというのが大まかな筋立てです。愛情を報酬に母親の奴隷になるか、神に罰せられて自由になるか、という揺れ動きでお話が進んでいきます。
 映画の終盤で、母が自分だけのものになるという期待を抱いてジュリアンはチャンを殺しに行きますが、そこにいたチャンの庇護下にある少女を助けるために仲間を殺してしまいます。なぜ母の命令通りに少女を殺すことができなかったのかといえば、ジュリアンは母の命令で殺されてしまう少女の中に、自分と母親との関係を見出したのではないでしょうか。母親は子供たちを自分の言いなりになるように性的な手段まで使って隷属させていましたが、同時に子供たちを精神的・象徴的に殺していたわけです。
 ジュリアンの兄が16歳の少女をレイプして殺したのも、母と自分との関係を、被害者であった自分が加害者である母になりかわって再度演じることで、そのトラウマを乗り越えようとしたものではないかと思います。そういう意味では兄は弟よりも重症です。兄弟が出会った二人の少女は、それぞれが幼き日の兄弟自身の姿を映す鏡であり、そこでジュリアンは自分自身を救い出すことができましたが、兄にはそれができずに、母と一体化してかつての自分を犯して殺してしまったわけです。「怪物が来るぞ」というセリフの怪物とは少女を殺す自分のことでもあり、その自分に憑依している「子を殺す母」という母親のイメージでもあります。

 本編と直接関係ない話ではありますが、このジュリアンと母親の関係はレフン監督の別作品である「プッシャー2」での主人公と父親の関係によく似ています(片親と死別し、健在の親は犯罪組織の元締めで、兄弟ばかり可愛がって自分には冷たく、映画の終盤に人を殺すように命じてくる)。
 また父権的で暴力的な神のイメージというのも、「ブロンソン」や「ヴァルハラ・ライジング」や「ドライヴ」の非常に暴力的である一方で聖人的でもある主人公たちの姿と重なります。そういう意味では、これまでの作品を掛け合わせたような映画であるともいえるのではないでしょうか。